河内の郷土文化サークルセンター創立25周年記念講演 

『河内文化のおもちゃ箱』と記憶遺産   =講演録=


          

 2009年11月28日  
           浅野 詠子    
              会場 大阪商業大学「蒼天」
 


 
■暗越奈良街道は文化の多元的回廊 
 このたび刊行された『河内文化のおもちゃ箱』(批評社)には、「記憶遺産」にまつわる私のエッセーを収録して頂きました。私は、生駒山を隔てた奈良市民であり、その異界の地から河内について感じた率直な思いをつづっています。もっと正確にいうと、私は神奈川県の出身であり、大学卒業まで首都圏におりましたから、奈良の地にあっても、よそ者であります。したがって、このエッセーの中では、いまも旅人のような目で河内を眺めております。
 先月のことですが、生駒市で、暗越奈良街道の振興を目指す行事があり、私はパネルディスカッションのコーディネーターを務め、この街道について少し考える機会がありました。街道は、摂津、河内を経て、大和国に入りますが、生駒山を隔てた阪奈の両極端のような世界がおもしろく感じられます。たとえば、路上の広告物というものは、奈良町などの景観を守るうえで、規制や取り締まりの対象、ときには排除する対象になりますが、ひとたび生駒山を越えて、この河内に入ってきますと、屋外広告物は、どこか人間くさい、風情ある路上の景観として映ることがあります。
 つまり、生駒山を隔て、阪奈は違い合っているが、街道というひとつのつながりを通して、両府県の人間同士がどこかで結びつきを深めていく。そんな活動に期待しています。そのきわだった違いが魅力の暗越奈良街道を、私は「文化の多元的回廊」とでも呼んでみたいです。
 私はよそ者であると申しましたが、今日の地方自治を見ましても、外部監査というものが、中核市以上の都市になれば法定の義務になり、よそ者の視点がいわば公認されたようなものです。外部の目は、まちづくりにおいても重要であります。私はよそ者の視点を生かして、住まいする奈良市の振興を考え、ときには旅人の心で、お隣りの河内文化を味わっています。

■記憶遺産とは何か
 私が記憶遺産という言葉を思いついたきっかけは、東大阪市の知人から二年ほど前にもらった、まち歩きのパンフレットがきっかけでした。そこには昭和五年に焼失した、長瀬の撮影所の写真が刷り込まれています。往年には、東洋のハリウッドと呼ばれた重厚な建物です。とても新鮮な感じを受けました。私たち奈良市民にとっては、散策のパンフレットというものはとかく、外国の方や県外の人が観光をするために、いわば外部の人々のために製作されることが多いのです。ところが、東大阪のパンフレットは、自分たちが散策して楽しむという、わがまち再発見のための役割を担います。しかも、現存しない建物の写真を、散策マップの中心にすえるというやり方が印象的です。
 「ない」ものがある、という世界。その後、先ほどお話した暗越奈良街道の振興を図るグループのメンバーと共に、摂津から河内にかけての街道を歩きましたが、そのときも、彼らがこしらえた散策マップに、現存しない演舞場が刷り込まれていたのです。またしても、「ない」ものがある、という世界に遭遇しました。
 あの長瀬の撮影所を散策パンフレットに取り入れた活動と、暗越奈良街道の散策マップをこしらえた取り組みとは、それぞれ独自の動きであると思いますが、何か不思議な共通点が見えてきます。
 そして三度目に、私が思い知らされた「ない」ものがある世界についてお話します。太宰治の生誕百年を記念した映画「パンドラの匣」の上映が話題になりましたが、近鉄の河内永和の駅前を活動拠点にするコミュニティー・エンパワーメント東大阪という市民団体の代表者の方から、小説『パンドラの匣』の健康道場のモデルは、かつて東大阪内にあった結核療養所であるという電子メールを頂きました。昨年の暮れのことです。昭和十年代に、日下園地にあった健康道場ですね。
 太宰は関西に来たことがないというのが定説のようですが、この健康道場で療養した青年の日記が作品のヒントになり、名作が生まれたそうです。そこで、市民団体の方は、映画の上映を機に、この小説が繰り広げる世界を、東大阪の新しい文化資源にできないものかと、呼び掛けていました。
 これには少し驚きました。小説のルーツをたどっていけば、太宰と東大阪の結びつきはないことはないのでしょうが、そんな縁を持ち出してまで、まちおこしの素材にしようする、河内の人たちの強いエネルギーを感じました。「ない」ものをまちおこしに生かす、独特な取り組みだと思います。

■惜しまれながら消えていく建物
 記憶遺産とは何か。私なりに考えてみました。それは、そう遠い昔の話ではなく、自分たちの祖父母の世代が親しんだであろう建物をあてはめています。私は昭和三十年代の生まれですから、およそ明治時代の後半にあった建物などが範囲になり、もっと若い、昭和四十年代、五十年代の世代にとっては、大正から昭和初年にかけて存在し、いまはない建物などがあてはまるでしょう。祖父母の時代を想像し、心に描くような遺産です。現存はしていないが、写真やスケッチに残され、郷愁を呼んでいるものは、記憶遺産であると思います。
 河内の郷土サークルセンターのみなさまが取り組んだ『河内文化のおもちゃ箱』の中にも、先ほど話した長瀬の撮影所のスケッチが出てきます。驚きましたのは、本書には、あの『パンドラの匣』に出てくる「竹さん」や「マア坊」のモデルになった女性たちの写真が出てくることです。そして、あの健康道場の写真はとても鮮明に掲載されていますね。執筆者によりますと、今では、石垣や石灯籠のようなものがかすかに残るだけで、建物は残ってはいません。何もないのだけれど、『河内文化のおもちゃ箱』が記憶遺産をよみがえらせたのですね。
 その記憶遺産を、まちおこしにつなげたいものです。掘り起こす過程において、地域の人々が語らう機会は深まっていくだろうと思います。そして、スケッチや写真に残されたなつかしい風景は、これからの景観づくりの参考にもるでしょう。さらに、地域のお年寄りに聞き取りをしながら、消えていった建物の確かな記憶を引き出し、記録し、つかみとっていく活動を通して、世代間の交流はますます深まるでしょう。まちづくりの展望は開けてくると思います。
 民家や芸能場、福祉施設、公園など、いろいろなものが記憶遺産の範ちゅうですが、大切なことは、「惜しまれながら消えていった」ということですね。多くの人が不要と感じ、積極的に壊して建てかえたものを記憶遺産の範囲に入れるのは、少し無理があるかもしれません。
 私が住む奈良県では、橿原市今井町の伝建地区や、奈良市の奈良町・景観形成地区などは、法令に基づき、徹底して木造のまちなみを守る使命があります。けれども、ひとたび生駒山を隔てて河内に入れば、古き良き建物であっても、現代の建築に席を譲る、現代的な意匠や芸術に禅譲するという場面が、奈良以上に頻繁に起こってくると思います。そこには、個人の努力だけでは残せないような、「惜しまれながら消えていく」建物があり、その温もりを記憶遺産として伝えていく活動が期待されるのです。

■大和川は水の歴史回廊
 阪奈にまたがる大切な地域資源として、冒頭に暗越奈良街道のお話をしました。これと並ぶ最大級の地域資源は何かと問われれば、やはり大和川だと思います。それは、この河川が歴史性、物語性を秘めているからであります。上流にいけば、万葉の飛鳥川や佐保川となって歌う河川になり、下流にいけば、三百年前の付け替え工事によって、河内木綿などの新しい産業を興した旧河川の跡地もあれば、逆に、望まない河川が流れ込み、田畑の水没と格闘した地域もある。上流から下流に至るまで、これほど物語る河川がどこにありましょうか。水の歴史回廊とでも呼んでみたくなります。
 河川の水質ということになれば、全国ワーストワンなどと報じられることもありますが、しかし、流域の山地率が低く、しかも降雨量は少なく、さらに住宅密集地を縫って流れるわけですから、北海道や東北の河川などと水質だけを比べて嘆いても何も始まらないと思います。もちろん、水質を浄化することは大切ではありますが、それ以上に、もっと大切な価値を追求したい。
 私は奈良盆地において、この大和川の兄弟姉妹ともいえる、ため池の現代的な価値を追求しています。きっかけは、世界遺産・春日山原始林の緩衝地帯に、治水ダムの付け替え県道が建設されたことです。ダムの代案として、もっと奈良らしい治水を探る考えうえで、現存するため池の治水効果に注目してきました。ため池は、農業土木の遺産というだけでなく 治水をはじめ、防火や生物多様性の確保など多機能です。何より、海のない奈良盆地にあって貴重な水辺の空間であります。奈良盆地の開発の勢いとともに、ため池は激減していて、それゆえに私はかりたてられるのですが、その点では、記憶遺産の世界とも関連していますね。
 大和川は、よその河川よりも三倍の価値があると思います。上流には万葉の河川があり、下流には付け替え工事がもたらした、旧河川と新河川のエリアに新しい文化が展開してきました。その付け替え工事は、いまふうに言えば、持続可能な公共投資の範ではないでしょうか。その証拠に、三百年たった今でも、地域の人たちは付け替え工事の話をさかなに酒をくみかわしている。そんな河川は日本中、どこを探してもなかなか見つからないと思います。物語る河川として、大和川の魅力を発掘していきたいものです。
 私自身がこれほど大和川にこだわる理由は、歴史や万葉歌の魅力もさることながら、防災と景観という、災害に強く、しかも多自然型の豊かな護岸をいかに形成していくかという、対立しがちな課題をかかえているからです。現代の英知で向き合い、努力するに値する河川だと思います。
 先ほど申し上げた、現存しない長瀬撮影所が出てくる散策パンフレットには、昔流れていた大和川の河道のあとがうっすらと描かれております。三百年もたってはいますが、どこか記憶遺産めいております。
 ご清聴ありがとうございました。

(あさの・えいこ / フリージャーナリスト)
=講演録に加筆・修正した=    


                              
 

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